紅い檻

雌犬たっての希望で、自分の他愛も無い話をただ書き連ねるだけのブログを開設。 信じるも信じないも貴方次第。

主従関係



今回は、主従についての考え方を書いていこうと思う。



主従とは何か。



主は、主を指す。



従を導く者である。



従は、従者を指す。



主に付き従う者である。



ここまでは、誰にでもわかる主従についてだろう。



では、主従の在るべき姿とはどうだろうか。








主の命令は絶対。



従者は、常にいかなる時でも主に従わなければならない。



これは、正解であり、在るべき姿だろう。



しかし、これを濫用したエゴSによる偽の主従があることを知っているだろうか。



自分の命令は絶対。相手が嫌がっても必ず従わせる。



嫌がっているのはマゾだから嬉しいことだ。



そんな考えのSに会ったことがある人も居るだろう。



これは、不正解で、俗に言われるエゴSである。



さて、どこが間違えているのか。



それは、「嫌がっているのはマゾだから嬉しいことだ」という部分であり、



思い込み、強要してしまう部分である。








確かに、嫌がるのを強制されて喜ぶマゾも一部には存在する。



性癖として確立した部分だ。



しかし、主従として考えるならば間違いである。



前述のとおり、あくまで喜ぶマゾは一部であり一般的ではない。



主従として概念を確立するならばそぐわないだろう。








では、主従とは何なのか。



主は、模範であり従者を必ず従わせる。



従者は、嫌がらずにいかなる場所、時間、内容でも主の命令を喜んで聞き入れる。



これである。



そんなこと、絶対に無理だと思うだろうか。



確かに、表面上で主従を演じてごっこ遊びをするならば到底無理な話だ。








主従とは恋人関係の上位互換である。



これは、俺が不安になった従者へ良く言って聞かせる言葉だ。



愛があるから主従は成り立つ。



主は愛を持って、従者へ命令を下す。



従者は愛を持って、主の命令に必ず従う。



本当の意味で信頼している従者は、どんなに無謀な命令をされたとしても、



愛する主のために無理でもとりあえず頑張ってみよう、



努力をしてみようと頑張るものである。








先ほど述べた、主の命令には必ず従うという部分について。



「必ず命令を達成する」と書いていないことに気がついただろうか。



恐らく、遊びでしか主従を演じていないS、Mの人たちは気が付かなかったと思う。



そう、必ず達成する必要はないのだ。



必ず達成しなければ、命令を聞いていないのと同じだと思うエゴSもいるだろう。



ならば、自分がどんな事でも達成してみると良い。



地上50階の建物からダイブして生還するとか。



1日で地球を一周してみるとか。



無理なことは、誰がやったところで無理である。



けれど、チャレンジすることは誰にでもできる。



大切なのは、命令に対して真剣に努力をしているかどうかだ。








お互いに信頼関係を得た、従者に対して俺自身が、



「1日で地球を一周してこい」



と命令するかもしれない。



そうしたら、その子は地球一周に向けて支度をするだろう。



そうして、喜んで出発をしていく。



が、しかし、当然達成は不可能である。



その子にもそんなことは分かりきっている。



達成できなくとも、主の命令を受けた以上、とりあえずやってみよう。



どこまで出来たかを報告しようと思うだろう。



達成できませんでした、と俯きながら謝罪する子もいる。



一周は出来なかったけれど、こんなに進みました、と元気よく謝罪とともに報告する子もいる。



いろいろな子がいるが、どの子もとりあえずやってみるという姿勢が極めて重要である。



命令に対して達成できなかったのだから、こちらは叱責をし、



従者は謝罪を必ずすることになるだろう。








叱責はするが、責めてはいけない。



矛盾しているだろうか。



命令を達成できなかった。



これに対しては、叱責をするべきである。



責めてはいけない、というのは、その後に、続けて責め立てることを指す。



あくまで、性癖を除いた話ではあるが。



では、なぜ責めてはいけないのか。



それは、従者の能力の芽を摘んでしまうことになるから。








主は、従者の前で胡坐をかいて指示や命令を出しているだけで良いわけではない。



常に、従者を思い、彼女たちの能力を伸ばしてやることが役目であるからだ。



これは、一種の奉仕である。



そう、主従とは、お互いに奉仕をする関係である。



飛躍し過ぎている理論ではあるが、ここまで読んで共感できた人には理解できるだろう。



達成できなかった従者に対して、叱責をした後。



努力への称賛と、改善策を提示してやる。



「達成はできなかったけれど、よく努力をしたね。」



「もう少し、準備の時間を減らしたら、もう少し進めたね。」



といった具合に。








この記事の画像にもあったが、主は飴と鞭の使い方を極めなければならない。



それが、本来在るべき姿の第一歩である。



そして、従者は、主を信頼することへ注力しなければならない。







とりとめのない文章になってしまったが、これ以上書くとさらにとりとめがなくなり、



結論が迷子になってしまうので、この辺りで終わろうと思う。








主従の在るべき姿とは、信頼の元に、絶対的存在として命令を下し育てる主と、



どんな命令でも聞き努力をする従者がいる関係なのではないだろうか。








 慧*