紅い檻

雌犬たっての希望で、自分の他愛も無い話をただ書き連ねるだけのブログを開設。 信じるも信じないも貴方次第。

フェチについて



こんばんは。



本日は、個人的なフェチの話。




人間、誰しもフェチは持っているものである。



そう、何を隠そう、もちろんこの俺にもある。



今日は、そんな誰得な自分のフェチについて話そうと思う。




一番重要視、というよりは一番のフェチは太ももである。



それに気が付いたのはいつだろうか・・・。



恐らく、大学在学中くらいだろう。



正直な話、見ているだけでも結構気持ちが昂ってしまう。



滑らかな肌、弾力。



一番良い太ももとは、すこし肉付きの良い太ももである。



これは、有名な哲学者、慧の言葉である。



しかし、色が白めの少し太い肌が滑らかな太ももは当然触れてみたいし



撫でてみたいものだ。



こんなことを書いていると自分の犬が妬いていそうだが。



太ももには当然のことながら、ニーソックスが映える。



生の太ももも良いものだが、あのニーソックス、ハイソックスの太ももへの食い込み具合



はなかなかそそられるものがある。



正直、太ももならば、何時間でも触れたり、撫でたり、舐めたりすることが可能だろう。



まさに変態である。






次のフェチは、匂いだ。



こちらも重要なものだが、気が付いたのは結構昔だ。



女性の匂いが勿論好きなのである。



大抵はシャンプー等の匂いなのだろうけれど、あの独特な香りは



化学的な見地から言えば、シャンプーと女性フェロモンの相乗効果であると



考えている。



こちらも、太もも同様、何時間でも嗅いで居られる。



肌からではなく、一番嗅ぎやすくて匂いの良い場所は髪の毛だ。



相手の髪の毛に鼻を埋めながら只管深呼吸をしたいと考えている。



これも、だいぶ変態性が高い話題になってしまう。



匂いフェチだから、良い匂いが好きなわけではない。



そもそも匂いフェチとは、「自分の」特に好きな匂いがある人のことだからだ。



因みに、一番最初に女性の匂いと断言していたが、それ以外にも存在する。



新車の中の匂い、地下室の匂い、本屋の匂い、図書館の匂い、雨が降った時の土埃の匂い。



様々なものが俺は好きだ。



特に好きなのは、本屋と雨の匂い。



本は昔から好きだったが、本だけではなく匂いも好きだった。



この匂いについては、インクの匂いらしく、自分はインクの匂いが好きなことが判明した。








最後に、髪の毛フェチであること。



先ほどの匂いフェチにつながるものもあり、髪も実は好きなのだ。



黒くて艶やかで、サラサラな髪の毛・・・。が理想だが、ごわごわしていなければ



大抵の髪の毛は好きだ。



髪を梳かすのも好きだし、触れているのも好き。



当然、頭を撫でた時の感触も好きだ。



髪の毛フェチについては、特に語ることもないので、このくらいで。











三つのフェチについて書いてきたが、分量は圧倒的に少なめである。



それも当然。



フェチとは、語るものではなく感じるものだからだ。



良く、フェチを語るという人もいるが、それは偽物である。



フェチは自分特有のものであり、他人に語ったところで理解されないし、



時には引かれてしまうこともあるだろう。



フェチについて、語るという人はフェチシズムではなく、



フェチを持っている自分を顕示して欲を満たしているだけなのだ。










 慧*

好きなものについて



好きなことで、生きていく。




こんにちは、慧です。




今回は、少し毛色を変えて自分の好きなものやことについて書こうと思う。







先ずは、好きな食べ物から。



基本的になんでも好き。



嫌いなもの以外が好きな食べ物といっても過言ではないだろう。



因みに、嫌いなものは、生チーズと清涼飲料水のジャスミン茶以外のお茶である。



特に好きなものと言われたら・・・。



先ずは、サーモン。



正直、これは好き過ぎてこれだけ食べても生きていけると思っているほどである。



次に、中華料理。



麻婆豆腐、青椒肉絲、餃子に炒飯。拉麺も美味しい。



海外旅行、特に台湾や香港への渡航歴が幼少期から多く、



日本向けの中華料理、というよりは本場の中華料理の味が大好きだ。



余談だが、大学生のころに熱を出した友達の家へ行って看病をしたときに、



作ってあげた中華風雑炊は大変好評だった。




次に、カツ丼。



基本的に、どこのカツ丼も好きだが、大手チェーン店の「かつや」は、



俺が唯一認めているチェーン店の一つである。



旨い。






続いて、好きなこと(趣味)について。



これも、基本的に幅広く何でもやりたいし、何でもやるタイプだ。



釣り、テニス、ゲーム、アニメ、筋トレ、作曲、弓道、料理・・・。



死ぬまでに本当に色々なことに挑戦したいというのが俺の夢の一つである。



友達に誘われれば、ついて行ってとりあえずやってみる。



合わなければ、やめれば良し。



兎に角、一度やってみなければその楽しさというのは理解できないし、



自分の知見も広がらない。



食わず嫌いは本当に損をしていると思っている。



何事もチャレンジすべきだ。





次に、毛色は変わってしまうが、好きな女性、フェチについて。



好きな女性は、狂うほど俺だけを愛して、尽くしてくれる子。



とても理想が高いと思う。ストーカー気質くらいの子が好きだ。



今飼っている子は、まさにそうなんだけれど、これはまた別の話。



見た目は、正直どうでも良い。



強いて、好みの見た目というのならば・・・。



身長が低くて、髪の綺麗な子。少し肉付きの良い身体をしている子だろうか。



フェチについては、髪、匂い、太ももである。



これについても、いずれ書く時が来るだろうか。



需要は限定的だが。



とりあえず、今日はこの辺りで。



明日も、皆にとって良い一日となるように。







 慧*

主従関係



今回は、主従についての考え方を書いていこうと思う。



主従とは何か。



主は、主を指す。



従を導く者である。



従は、従者を指す。



主に付き従う者である。



ここまでは、誰にでもわかる主従についてだろう。



では、主従の在るべき姿とはどうだろうか。








主の命令は絶対。



従者は、常にいかなる時でも主に従わなければならない。



これは、正解であり、在るべき姿だろう。



しかし、これを濫用したエゴSによる偽の主従があることを知っているだろうか。



自分の命令は絶対。相手が嫌がっても必ず従わせる。



嫌がっているのはマゾだから嬉しいことだ。



そんな考えのSに会ったことがある人も居るだろう。



これは、不正解で、俗に言われるエゴSである。



さて、どこが間違えているのか。



それは、「嫌がっているのはマゾだから嬉しいことだ」という部分であり、



思い込み、強要してしまう部分である。








確かに、嫌がるのを強制されて喜ぶマゾも一部には存在する。



性癖として確立した部分だ。



しかし、主従として考えるならば間違いである。



前述のとおり、あくまで喜ぶマゾは一部であり一般的ではない。



主従として概念を確立するならばそぐわないだろう。








では、主従とは何なのか。



主は、模範であり従者を必ず従わせる。



従者は、嫌がらずにいかなる場所、時間、内容でも主の命令を喜んで聞き入れる。



これである。



そんなこと、絶対に無理だと思うだろうか。



確かに、表面上で主従を演じてごっこ遊びをするならば到底無理な話だ。








主従とは恋人関係の上位互換である。



これは、俺が不安になった従者へ良く言って聞かせる言葉だ。



愛があるから主従は成り立つ。



主は愛を持って、従者へ命令を下す。



従者は愛を持って、主の命令に必ず従う。



本当の意味で信頼している従者は、どんなに無謀な命令をされたとしても、



愛する主のために無理でもとりあえず頑張ってみよう、



努力をしてみようと頑張るものである。








先ほど述べた、主の命令には必ず従うという部分について。



「必ず命令を達成する」と書いていないことに気がついただろうか。



恐らく、遊びでしか主従を演じていないS、Mの人たちは気が付かなかったと思う。



そう、必ず達成する必要はないのだ。



必ず達成しなければ、命令を聞いていないのと同じだと思うエゴSもいるだろう。



ならば、自分がどんな事でも達成してみると良い。



地上50階の建物からダイブして生還するとか。



1日で地球を一周してみるとか。



無理なことは、誰がやったところで無理である。



けれど、チャレンジすることは誰にでもできる。



大切なのは、命令に対して真剣に努力をしているかどうかだ。








お互いに信頼関係を得た、従者に対して俺自身が、



「1日で地球を一周してこい」



と命令するかもしれない。



そうしたら、その子は地球一周に向けて支度をするだろう。



そうして、喜んで出発をしていく。



が、しかし、当然達成は不可能である。



その子にもそんなことは分かりきっている。



達成できなくとも、主の命令を受けた以上、とりあえずやってみよう。



どこまで出来たかを報告しようと思うだろう。



達成できませんでした、と俯きながら謝罪する子もいる。



一周は出来なかったけれど、こんなに進みました、と元気よく謝罪とともに報告する子もいる。



いろいろな子がいるが、どの子もとりあえずやってみるという姿勢が極めて重要である。



命令に対して達成できなかったのだから、こちらは叱責をし、



従者は謝罪を必ずすることになるだろう。








叱責はするが、責めてはいけない。



矛盾しているだろうか。



命令を達成できなかった。



これに対しては、叱責をするべきである。



責めてはいけない、というのは、その後に、続けて責め立てることを指す。



あくまで、性癖を除いた話ではあるが。



では、なぜ責めてはいけないのか。



それは、従者の能力の芽を摘んでしまうことになるから。








主は、従者の前で胡坐をかいて指示や命令を出しているだけで良いわけではない。



常に、従者を思い、彼女たちの能力を伸ばしてやることが役目であるからだ。



これは、一種の奉仕である。



そう、主従とは、お互いに奉仕をする関係である。



飛躍し過ぎている理論ではあるが、ここまで読んで共感できた人には理解できるだろう。



達成できなかった従者に対して、叱責をした後。



努力への称賛と、改善策を提示してやる。



「達成はできなかったけれど、よく努力をしたね。」



「もう少し、準備の時間を減らしたら、もう少し進めたね。」



といった具合に。








この記事の画像にもあったが、主は飴と鞭の使い方を極めなければならない。



それが、本来在るべき姿の第一歩である。



そして、従者は、主を信頼することへ注力しなければならない。







とりとめのない文章になってしまったが、これ以上書くとさらにとりとめがなくなり、



結論が迷子になってしまうので、この辺りで終わろうと思う。








主従の在るべき姿とは、信頼の元に、絶対的存在として命令を下し育てる主と、



どんな命令でも聞き努力をする従者がいる関係なのではないだろうか。








 慧*